紀伊ハンター Minminzemi-Jr

こんにちは!「Min 1号」と「Min 2号」のブログです。

和泉山脈に隠された、謎のモノリス「紀泉入会解消記念碑」その正体とは?!和歌山市 西庄【ずっと謎だった】

f:id:minminzemi81:20190603153859j:plain

和泉山脈紀伊半島を東西に走り、和歌山と泉南を二分する。修験道「葛城二十八宿の行者道※」もこの尾根筋あたりを縦走しています。 

(※葛城二十八宿(かつらぎにじゅうはっしゅく)とは、役の小角(行者)が「法華経八巻二十八品」を埋納したとされる経塚のこと。この経塚には青岸渡寺(熊野修験)七宝滝寺(犬鳴山修験)転法輪寺(葛城修験)聖護院(本山派修験)などの行者(修験者)達による行場や宿が点々とある。

友ヶ島から始まり、和泉山脈金剛山葛城山二上山を経て大和川の亀の瀬に至る葛城山脈(山脈自体を、葛城山とも呼ぶ)縦断する修験道の聖路である。

 

和歌山市と大阪泉南市の、県境に“謎の石碑”が建っていました

 

昔の行政区分でいえば「紀州泉州」地理的には別の国。でも住民感覚では、曖昧な国境線でしかなく双方とも、自由に裏山に立ち入っていた。

f:id:minminzemi81:20190603153444j:plain

紀泉入会解消記念碑

和歌山市西庄から、県道751を北へ猿坂峠目指し登って行く。ヘアピンの終わり、峠道から外れ右手の登山道へ入る。すぐに「紀泉入会解消記念碑」があった。

f:id:minminzemi81:20190604143207j:plain

石碑裏側

ここからは「新日鉄住金和歌山製鉄所」や「和歌山市街地」が、眼下に拡がり眺めがとても良い場所。しかしこの石碑は、どうしてこんなに立派なのか?まさに“謎のモノリス”ではないか!

f:id:minminzemi81:20190604143024j:plain

南方向は眺めよし

石碑の横にはベンチがあります。その前にはテーブルなのかな?お助け杖も完備されていました。地元の方の手作りと思われますね。

f:id:minminzemi81:20190603210549j:plain

東方向を眺める

「うん、いい眺めだっ!」

f:id:minminzemi81:20190603192042j:plain

 

この石碑は何百年にも渡る“闘争の歴史”を意味していた

 

この碑石が建っている意味、簡単に云えば元禄時代より「和歌山と泉南地域の血みどろの入山紛争が続いていた」そして数度に渡る話し合いの結果、昭和十年にようやく入会が解消された。そういった内容だったが、その当時の資料を読むと、ずいぶんと“根深い闘い”だったようですね。

三百年も続く係争なんてそうそうありませんよ。先祖代々連綿と、一歩もひくに引けない (((重大な事案))) だったのです!そうに違いない…怖。

(注/ちなみに入会権⇒“いりあひ”とは、地域の住民がそれまでの慣習に基づき、山林原野などを共同利用し、草木、薪炭材、鳥獣などを採取できる権利を云う)

f:id:minminzemi81:20190603154502p:plain

オラもうイヤだぁぁ~

当時の新聞記事を引用します。

見出し『流血の三百年史に見事・昭和の裁き 紀泉國境入會の分割騒動 八箇村民が手打ち』

本文元禄時代から三百年もの長い間 松茸山をめぐって大阪五箇村和歌山三箇村が 入乱れて血眼の争いをつづけてきた 紀泉国境入会山の分割騒動は本年に入り 急速度に円満解決への朗らかなステップを踏んでいたが、十七日午後三時大阪府泉南郡東信達村楠畑において 大阪側松沢農務課長天野技師並に東信達村ほか四箇村長、和歌山側梅田林務課長、内田技師及び山崎村外二箇村長等が会合して 最後の調停を進めた結果 ついに円満に妥協成立し目出度く手打となり ここに三百年の紛糾もヤット納めの幕をおろすことになった、徳川の昔 大阪府東西進達樽井外二箇村和歌山県山崎、小倉、根来の三村 合計八箇村の村民は 共有の入会松茸山を繞り先祖相伝で争いを繰り返してきたところ 元禄十四年稲葉守の調停で境界線を定めたが、その後 明治初年に至り元の共有山となり その後農林省でもしばしば調停に乗出し 大正十五年一旦解決したが、間もなく大阪、和歌山双方がこの調停を破ったため 争いは深刻となり遂に流血の騒ぎを見るに至ったので 堪まりかねて両府県当局が一昨年来妥恊に奔走の結果 ついに今回成立したものである』(大阪時事新報記事 昭和十年 1935年5月19日付)

えぇぇぇ?!マッタケ山をめぐって「三百年も闘っていた?」マジですかぁぁ~少し笑け☺ぷぷっ、三百年も、まったけ?!

f:id:minminzemi81:20190603155132j:plain

松茸山だった面影はないね

このあと、妙にキョロキョロして歩いたことは、秘密です…🍄 

 

あの有吉佐和子さんも、注目していたという事件なのです

 

また、この石碑は有吉佐和子の小説『助左右衛門四代記』にも登場します。この土地、木ノ本育ちの著者は、地元和歌山を舞台にした作品を沢山描きました。そのひとつです。

助左衛門四代記 (新潮文庫)

助左衛門四代記 (新潮文庫)

 

○あっさりあらすじ

妻が巡礼の白い犬をあやまって殺してしまう。「この家に七代まで祟ってやる!」白い犬が原因でおかしくなってゆく…そして七代にもわたる嫁取りの物語、それぞれが苦労をしながらも家系をつないでいく。有吉先生の描く紀州弁が、本当に美しいですね。

 

○この場所への行き方

最寄り駅は南海加太線西ノ庄駅」下車約20分位。さらに北に進めば「甲山」があります。地元では有名なヤマですよ。

f:id:minminzemi81:20190603205216p:plain

紀泉入会解消記念碑 周辺地図

○県道751号木ノ本岬線、和歌山側は綺麗な舗装道路だが、この県境越えると一車線の道、荒れた道路となる。さらに進むと「甲山」へと至る。

f:id:minminzemi81:20190603214828j:plain

こんな感じココから大阪府

f:id:minminzemi81:20190604144632j:plain

甲山へのアプローチ

f:id:minminzemi81:20190604144746j:plain

甲山山頂からの眺め

○甲山にあった看板「甲山山頂 212m 私の好きな山 日本ベスト100第4位」だって。ヤッパ濃ゆいよなぁ<笑

ジャジャ~ン♪おしまいデス☺

 

(2200文字、Thank you for reading.bon voyage.)#なんて素敵な和歌山なんでしょう

和歌山市 岡公園に静態保存されている、蒸気機関車「C57 119」と「和歌山軌道321号」について【思ひ出車輌】

f:id:minminzemi81:20190414011708j:plain

和歌山城 岡口門
桜舞い散る和歌山城の岡口門から、三年坂通りを南へ渡ると岡公園があります。いつもここに来ると懐かしい気持ちが蘇ります。

和歌山市民から、愛され続ける岡公園です

 

和歌山城の南側にある「岡公園」は、和歌山市民なら一度は遊んだことがあるはずです。少し高くて「急角度の滑り台」が大人気で、何時も子供達の声がたえません。

 

また盤山「天妃山のテッペン」にも登ったのではないでしょうか?子供心に冒険気分になれましたね。裏の天妃池でのザリガニ釣りとか。

f:id:minminzemi81:20190413190610j:plain

丘公園入口にある石碑

岡公園に静態保存されている、蒸気機関車「C57119」です

 

懐かしの蒸気機関車「C57シゴナナ」です。紀勢線全通の昭和三十四年に、和歌山機関区に配属。その頃の和歌山機関区には、6、61、78の姉妹機も一緒に居たそうです。

 

ワタシも幼少期に乗った記憶が(うっすらと)あります。ずいぶん興奮してSLの絵を書いた。確か賞まで貰ったので、この車輌をよく覚えていました。

f:id:minminzemi81:20190408211948j:plain

丘公園に保存されているC57

紀勢線時代は特急「くまの」の牽引があり、集煙装置、重油併燃改造、ボイラ前端角化されて、以後紀勢線のSL廃止となる昭和四十八年まで活躍、退役後は岡公園にて美しく静態保存されています。

 

<和歌山県内で保存されているC57車輌>


○C57-7号機、和歌山県田辺市会津児童公園内
○C57-110号機、和歌山県橋本市、橋本運動公園内
○C57-119号機、和歌山県和歌山市、岡公園内

 

○貴婦人C57の勇姿✨をご覧下さい(昭和43年~47年撮影)

youtu.be

(※元国鉄和歌山機関区のOBである「田中一郎」さんが整備されています) 

 

南海和歌山軌道「321号」、通称ちんちん電車

 

皆んなから愛された、通称ちんちん電車(南海和歌山軌道)の321号も、岡公園で一緒に保存されています。昔は和歌山市民の足として、また景勝地和歌の浦への観光路線として大活躍しました。

 

昭和四十六年三月三十一日、路面電車廃止の日。営業運転が終了後、さらに車輌留置のために空車にて回送された321号が0時25分、和歌浦口停留所へ到着。ここにすべての路面電車の運行が終了しました。

 

和歌浦口」行き先表示されたまま、岡公園で時が止まっています。

f:id:minminzemi81:20190408212201j:plain

南海和歌山軌道 321号

保存車輌はここ岡公園と海南市にわずか二車輌が、残っているだけです(海南市、室山児童公園に322号がかろうじて残存)。他の車輌は和歌山の海の底に、漁礁として沈められ眠っています。これは愚かで悲しい“鉄道黒歴史”ですね。

 

▽在りし日の市電(和歌山軌道)の姿です(46年3月撮影)

youtu.be

 

新しく移築された「長屋門」で、岡公園の印象が少し変わった

 

岡公園の北東側。いまに残る紀州和歌山藩の中級武士の屋敷門です。白黒格子がらの海鼠壁が目を引きますね。なんだか妙に白くて新しくなった。

f:id:minminzemi81:20190413185110j:plain

以前は堀止にあった長屋門

f:id:minminzemi81:20190413190003j:plain

裏側にはこんな感じに

それもそのはず移築に伴い、新しい建材を使いリニューアルされていた。

f:id:minminzemi81:20190414051721p:plain

岡公園付近の地図

和歌山城観光の最後に、ぜひお立ち寄りください。

懐かしい想い出もよみがえりますよ。

 

(1300文字、Thank you for reading.bon voyage.)#なんて素敵な和歌山なんでしょう

ハマの番長こと「早乙女ニャンだのすけ」がやって来た!!和歌山 西脇漁港にて【猫にゃん】

漁港で“漁船の撮影”をしていた時のハナシです。夕方の柔らかな光と影、これはいいですねぇ。風もなく穏やかな天気で、こんなのを“明鏡止水”というのでしょうか。四字熟語は、何かよく分かりませんが。

f:id:minminzemi81:20190208160620j:plain

西脇漁港の夕景

それで“絵画っぽい感じの画”にしたくて、色々構図を考え撮影をしていたのですね。

鼻歌で名曲「冬のリヴィエラ」唄いながらだけど(笑)ナンダそれ、遠藤かよ。

f:id:minminzemi81:20190208154359j:plain

漁船のこんな感じとか

♪「冬のリヴィエラぁぁ~ 男ってヤツはぁ~ 港を出てゆく船のようだね哀しければ 哀しいほどぉ~ 黙りこむぅもんだねぇぇぇ~」…オワリ。

f:id:minminzemi81:20190205020325j:plain

このような漁港の写真です

我ながら“素晴らしい写真✨”が、撮れましたね! 自画自賛しとこ―。

 

ハマの番長「早乙女ニャンだのすけ」とは?!

 

次に漁船の船底が気になって、裏側を覗き込んでいたのです。するとですねぇ、突然向こうの方から、ドラ猫さんがとっとこ走って来るではないですか。

f:id:minminzemi81:20190205020311j:plain

疾走してくるニャンコ先生

見ればなかなかの“オトコマエな面構え”をしていました。漁師町に相応しく、天下御免の向こう傷まで持っているぞ。こりゃ決め台詞は「天下御免の向こう傷、パッ!」だね。

とにかく迫力満点なヤンチャ系ドラ猫だったのです。

🐱「にゃんだ、にゃんだ~?」とっととトト…ピタ!うずくまり。

f:id:minminzemi81:20190205020308j:plain

何かを考え中ですね

🐱「ふ~にゃ…たいくつで仕方がないにゃ」

しばらく何かを考え中のご様子。

f:id:minminzemi81:20190205020250j:plain

手前でうずくまり様子見

🐱「ふにゃ!!お主、カメラマンにゃのか!!」

ワタシの手にしているカメラを見つけたようです。

🐱「眉間に冴ゆる三日月形、天下御免の向こう傷、ニャ!」

すると意を決したかのように、こちらに近ずいてきたニャンだのすけ。

f:id:minminzemi81:20190205022258j:plain

突然立ち上がり歩き出す

🐱「羽川流 猫眼崩し!  “回転ダブル猫パンチ” 一指し舞うにゃ~!!」

おおっ、凄いぞっこれが必殺技なのかっ?!

f:id:minminzemi81:20190206210624j:plain

突然回転しだしたニャンだのすけ

突如、回転するニャンだのすけ、ぐるぐるぐる🌀速くて追いつけない。

f:id:minminzemi81:20190206210748j:plain

ピタリ止まった。決めポーズか?

🐱  シュタッ!「ふぅぅ、決まったニャ…」 

荒技を披露して疲労したのか、しばらく動かなかった。

 

なるほどそうか、思い出した一年前の記憶 

 

「あぁ、お前かぁ?」やっと思い出しましたね。

このドラ猫はたしかローソンの駐車場でいた“トラとクロの子供”なんだ。

久しぶり、ずいぶん大きくなったねぇ。そうだったんだぁ。

 

その時の話は、こちらに書いています。 ↓↓↓

minminzemi81.hatenadiary.com

とにかく迫力満点な“港町ヤンチャ系ドラ猫”なのでした。

 

○マシュマロをやっていますよ。コメントをどうぞ↓↓↓

marshmallow-qa.com



 (1100文字、Thank you for reading.)

梯子獅子舞で有名な「木本八幡宮」神武東征まで遡ると云う歴史的な神社です。和歌山市 木ノ本【神社仏閣覚書】

今年の初詣は、和歌山市木ノ本にある「木本八幡宮」にやって来ました。本八幡宮は「厳橿山 (いつかしやま)」の中腹にあります。その麓には仮宮の「権殿(ごんでん)」があり、毎年ここで「木ノ本の梯子獅子」が行われることで、古くから信仰を集めた歴史ある神社です。

f:id:minminzemi81:20190116182944j:plain

本八幡

 

まず「日前國懸神宮の鎮座伝承」について

 

神代の歴史から。『紀伊国造家 旧記』によれば、“神武天皇の東征”にさいして「二種の銅鏡」をたずさえ「天道根命(あめのみちねのみこと)」が、紀州“加太浦”に上陸したと謂います。

f:id:minminzemi81:20190111234829j:plain

加太紀淡海峡

そして加太よりこの地 木本へと銅鏡は移り、その後には琴ノ浦へ移ったことを、旧記は伝えています。さらにこの銅鏡は秋月にある「日前宮國懸神宮御神体」となりました。その流転の場所「加太浦」と「木本」は、それぞれ『加太 春日神和歌山市加太』に、そしてこの地『木本八幡和歌山市木ノ本』と、比定されています。

(※加太 春日神社の旧社殿は、南海加太駅の山の上にありました。)

f:id:minminzemi81:20190116184339j:plain

木の鳥居、石段が拝殿まで続く

また海南にある「琴ノ浦」は、毛見崎の付け根から広がっていた砂洲浜。対岸の冷水浦に向かって三メートル程の高さの大岩が立ち並び、波が打ち寄せて“琴の音”のように響いていたために「琴ノ浦」と名ずけられたという。『紀伊風土記』によれば「日前 國懸 神宮」が鎮座した浜であるので汚穢不浄の者を近づけず、もしその禁を破らば「祟りがあった」と。現在は埋め立てられてその姿を変え「新日鉄住金の海南工場」と「関西電力発電所」さらには、沖合に「マリーナシティ」が建っていますよ…これ、大丈夫なのでしょうか??

f:id:minminzemi81:20190116191035j:plain

御不浄は清めねばならない

また『紀伊国造家 別伝』には、天道根命が「日前 国懸 両大神」を奉じて「淡路国 御原山」に天降り、芦毛の馬に乗って「加太浦→木本→毛見浦」へと遷った、とも謂伝えています。

この時に天道根命が「日前 国懸 両大神」を「厳橿山の橿の木の根本に祀った」のを起源であるとし、そこから神社名が「木本の宮」となり、そしてこの地名を「木ノ本」と名付けたといいます。

これは、木の根元に御神体を祀る、古代の神社の在り方が判りますね。

f:id:minminzemi81:20190119213420j:plain

権殿の前は駐車場になっています

現在は厳橿山のふもと一帯に住宅街が広がりますが、往古は山麓直下まで海岸線が迫っていました。紀ノ川河口で天然の港でもあったこの場所に、社殿があったのですね。

確かにこの辺りは砂地の土地柄、なるほどと頷ける話です。

(出典元『國造家古き傳に「道根命」大神宮を奉じ“淡路國御原山」に天降り葦毛ノ馬にのりて「賀太」より來り「木ノ本」に到りてしばらく斎奉り又「毛見郷」に遷し奉り「國造大名草彦」の世にいまの宮地に遷し奉る時「木ノ本郷」御鎮座ノ地の土を運ひ來りていまの宮地に築き<中略>木ノ本山ともいふ社地に汚穢の物あれは其土を取棄て此山の土をめてきよむといふ』と記されている。『紀伊風土記』より)

 

本八幡宮に伝わる、神功皇后説話とは 

 

誉田皇子(後の応神天皇)は忠臣 竹内宿禰とともに、この木本に上陸して“頓宮(仮宮)”を営み、“しばらく滞在して難を逃れた”という故事があります。

その後、欽明天皇の勅命により、その頓宮跡に“しばらく滞在した”ことに因んで「芝原(しばはら)八幡宮」が創建されました。

f:id:minminzemi81:20190119225437j:plain

社地には自然林が拡がっています

その謂れとなった話です。神功皇后三韓征伐を終えて都へ凱旋の途中、自分の誉田皇子の異母兄にあたる「香坂皇子、忍熊皇子」が畿内にて反乱を起こしたと聞きました。彼らは“誉田皇子の誕生”を知り、神功皇后らがこの“赤子を太子に推戴する”ことを察知し、東国から秘かに兵を集め挙兵したのです。

(※年代はいまだ確定していない。そのため神功皇后の活躍“三韓征伐のあった年代”およびその“史実の妥当性”についての研究が続いている。倭国新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書三国史記新羅本紀や高句麗における『広開土王碑文』などにも記されており、2011年には新羅が倭朝貢国であったと記されている『梁職貢図』が新たに発見されている。以上、ウキペディアより抜粋)

f:id:minminzemi81:20190119213610j:plain

木の鳥居をくぐると右に手水舎がある

その忍熊皇子たちの動きを知った皇后は、いったん紀伊国に迂回して「誉田皇子をこの地に預け」また北上を開始した。それを知った忍熊皇子は、一度撤退して山背に陣を構えなおし“決戦の場”としました。

しかし、皇后軍の指揮を執る武内宿禰は謀略により、忍熊皇子をついに琵琶湖まで敗走させ、撃ち破ったのでした。

f:id:minminzemi81:20190119231409j:plain

青龍の手水舎

 

本八幡宮と芝原八幡宮が合体したと云うのです

 

それから遙かに降った元和四年(1618年)「山中の木本・裾野の芝原」の両宮が、一体化して「木本八幡宮」と称するようになったといいます。

f:id:minminzemi81:20190119213932j:plain

石段が山のなかに続いています

元和四年といえば、紀州徳川家 徳川頼宣公がお国入りした頃ですね。前代の権力者、豊臣秀吉の焼き討ちにより荒廃した社殿の復興支援した、ということでしょうか。栄枯盛衰繰り返し、いまがある、と。

f:id:minminzemi81:20190119231541j:plain

左側に社務所があります

f:id:minminzemi81:20190119231713j:plain

拝殿へ着きました

 

謎すぎる“萬葉集の歌碑”があった

 

本八幡宮の拝殿前に『萬葉集』の歌碑がある。斉明四年(658)に女帝の白浜行幸のお供をした額田王が「厳橿の木本の宮に参拝して作った歌」として歌碑を建てている。これは気になりますね。

額田王は謎のひと。生没年も不明、通説では大海人皇子(天武天皇)と結ばれて、十市皇女を生む。兄である中大兄皇子(天智天皇)にも愛されたらしい。その天智天皇崩御により「壬申の乱」が起こる。

すると額田王天智天皇の皇子である大友を見限り、大海人皇子についた。とにかくミステリアスな女性でした。

f:id:minminzemi81:20190119232823j:plain

拝殿横に歌碑がある

<巻一 第九番目>

“紀の温泉(牟婁の湯)に行幸し時、額田王の作れし歌”として

『莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新可本』

…という難訓難解な歌なのです。昔から萬葉集の研究者からは“定説が無い句”と言われてきたのですが。これはもう、本気の暗号文カモ?!この歌碑には、下の句を「吾が背子が、い立たせりけん厳橿が本」とよむらしい、と書かれていました。

「う~ん、しかし何だか判りませんね。」

 

やはり「木ノ本獅子舞」が一番有名ですね

 

秋空の下、十月に例祭「梯子獅子」が執り行われます。近隣からも多くの人々が集まり、毎年賑わっています。一度ご覧になってみませんか?

f:id:minminzemi81:20190108022440j:plain

木本の獅子舞 (和歌山市HP 観光課)

本八幡

f:id:minminzemi81:20190120002117j:plain

主祭神応神天皇神功皇后、日孁大神」

本八幡宮は古より皇室、源氏、徳川家を始め、広く民衆にまで崇敬されています。

木本の獅子舞/2018年度の様子

YouTube

○開催日 10月中旬

○開催場所 木本八幡宮 権殿前広場にて

○問い合わせ先 木本八幡宮(電話 073-451-5915)

 

(2800文字、Thank you for reading.bon voyage.)#なんて素敵な和歌山なんでしょう

ついに私が「ブログ書きの真髄」を語る時がきたようだね。ぬはははのは【ブログ傾向】

f:id:minminzemi81:20190117190552j:plain

 

ブログ初心者に“贈る言葉”言いたいアルアル、ブログ初心者に“贈る言葉”云いたいアルアル。ブログ初心者に“贈る言葉”いぃ~くよっ!

f:id:minminzemi81:20190117190628j:plain

 

One・Two・Three、はいっ⇒『ブログは“タイトルと、書き出し”がすべてっ!』…オワリ。

 

f:id:minminzemi81:20190117190731j:plain

 

<🐍蛇足コーナー>

カンタンに終わってもたがなぁ、かなんなぁホンマ、わかれへんちゅ~ねんキーボー、たのむでしかし…(横山やすし風)なるほど成程、これでは伊佐坂先生「あんまりぃ⤴︎」なので、もう少し続けますね。そう何故、「タイトルと書き出し」なのか??

 

タイトルつまんないと、誰にも見てもらえないよ

 

○「タイトルが大切ですか?」そう、ほとんどのヒトは「検索時にタイトルしか見てない」のです! “本でいえば背表紙”ですね。タイトルを“キャッチで煽り”まくってくださいっ!! 「キャッチコピー」こそ大切! オーディエンスに読まれたいならね。

 

 「検索時にタイトルしか見てない!」

ならば⇒「キャッチィなタイトルでキメっ!」

○これがそのお馬鹿な例↓↓↓キャッチーですか。

minminzemi81.hatenadiary.com

 

曰く「書き出しさえ決まれば小説は、八割できたも同然」だそうだ

 

○例えば文豪の川端康成先生は、あの有名な『雪国』でこう始めた「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」ハイ、傑作決定!ノーベル賞いただきっ!こんな“凄い出だし”は見たことないね。ドッ♡キュ~ンだねっ!

この一文が「すべてを物語る」のであります。

もちろん、我々凡夫がおいそれと出来ることでは無い、それはそうなのですが。けれども「努力ポイント」であり下手な真似ぐらいは、まぁ…やれない事でもないでしょう?! 何事も“つかみ”は大切です。ブログは名文である必要はないのだから。

だからといって…

○ブログでよく見かける書き出し ⇒「皆さん、おはようございます、こんにちは、こんばんは!○○で~す♪」と始まるヤツ。いったい誰に挨拶しとるんじゃコイツと、思ってしまう。やっすい漫才師じゃあるまいに、ハナからポチが尻尾振りまくりなのである。

「何事も“つかみ”は大切、名文の必要もない」

これ⇒「書き出しでぇ、キメキメっ!」

○これがそのチャレンジ例です↓↓↓なんか凄そう!

minminzemi81.hatenablog.com

 

人間見た目が大切、まして匿名文章(ブログ記事)なら尚更に

 

○EX.さらにさらに蛇足くわえるなら、ブログに「写真」は必須だね。

そう「百聞は一見にしかず」とは良く出来た警句、“千の駄文よりも一葉の写真”が多くを物語っています。拙い文章を補完してくれるのが「写真orイラスト」面倒くさがらずにズババーンと、沢山挿入いたしましょう!

 

「百聞は一見にしかず、写真は必要です」

だいじ⇒「写真で“愛✨キャッチ”しませう」

○これが一例となるかな?!↓↓↓ 山のように写真ぶち込みました。

minminzemi81.hatenablog.com

 

 「はいっ、まだまだ伸びしろありますねっ!!」

 

○付記/自由ネコさんも同じこと言ってるの発見! 貼っておきます。参考に。

【ブログ論】個人的には「記事の出来は最初の数行で決まる」と思っている - 自由ネコ

 

(1300文字、Thank you for reading.)