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こんにちは!「Min1号」と「Min2号」のSeminarです。

梯子獅子舞で有名な「木本八幡宮」神武東征まで遡ると云う歴史的な神社です。和歌山市 木ノ本【神社仏閣覚書】

2019年今年の初詣は、和歌山市木ノ本にある「木本八幡宮」にやって来ました。本八幡宮は「厳橿山 (いつかしやま)」の中腹にあります。その麓には仮宮の「権殿(ごんでん)」があり、毎年ここで「木ノ本の梯子獅子」が行われることで、古くから信仰を集めた歴史ある神社なのです。

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本八幡

 

まず「日前國懸神宮の鎮座伝承」について

 

神代の歴史から。『紀伊国造家 旧記』によれば、“神武天皇の東征”にさいして「二種の銅鏡」をたずさえ「天道根命(あめのみちねのみこと)」が、紀州“加太浦”に上陸したと謂います。

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加太紀淡海峡

そして加太よりこの地“木本”へと銅鏡は移り、その後には“琴ノ浦”へ移ったことを、旧記は伝えていますね。さらにこの銅鏡は秋月にある「日前宮國懸神宮御神体」となりました。

移転の場所「加太浦」と「木本」はそれぞれ『加太 春日神和歌山市加太』に、そしてこの地『木本八幡和歌山市木ノ本』と比定されています。

(※加太 春日神社の旧社殿は、南海加太駅の山の上にありました。)

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木の鳥居、石段が拝殿まで続く

また海南にある「琴ノ浦」は、毛見崎の付け根から広がっていた砂洲浜。対岸の冷水浦に向かって三メートル程の高さの大岩が立ち並び、波が打ち寄せて“琴の音”のように響いていたために「琴ノ浦」と名ずけられた。

紀伊風土記』によれば「日前 國懸 神宮」が鎮座した浜であるので「汚穢不浄の者を近づけず」、もしその禁を破らば「祟りがあった」という。

現在は埋め立てられてその姿を変え「新日鉄住金の海南工場」と「関西電力発電所」さらには、沖合に「マリーナシティ」が建っています…これ、大丈夫なのでしょうか?

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御不浄は清めねばならない

また『紀伊国造家 別伝』には、天道根命が「日前 国懸 両大神」を奉じて「淡路国 御原山」に天降り、芦毛の馬に乗って「加太浦→木本→毛見浦」へと遷った、と謂伝えています。

この時に天道根命が「日前 国懸 両大神」を「厳橿山の橿の木の根本に祀った」のを起源であるとし、そこから神社名が「木本の宮」となり、そしてこの地名を「木ノ本」と名付けたといいます。木の根元に御神体を祀る、古代の神社の姿が判りますね。

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権殿の前は駐車場になっています

現在は厳橿山のふもと一帯に住宅街が広がりますが、往古は山麓直下まで海岸線が迫っていました。紀ノ川河口で天然の港でもあったこの場所に、社殿があったのですね。

確かにこの辺りは砂地の土地柄、なるほどと頷ける話です。

(出典元『國造家古き傳に「道根命」大神宮を奉じ“淡路國御原山」に天降り葦毛ノ馬にのりて「賀太」より來り「木ノ本」に到りてしばらく斎奉り又「毛見郷」に遷し奉り「國造大名草彦」の世にいまの宮地に遷し奉る時「木ノ本郷」御鎮座ノ地の土を運ひ來りていまの宮地に築き<中略>木ノ本山ともいふ社地に汚穢の物あれは其土を取棄て此山の土をめてきよむといふ』と記されている。『紀伊風土記』より)

 

本八幡宮に伝わる、神功皇后説話とは 

 

誉田皇子(後の応神天皇)は竹内宿禰とともに、この木本に上陸して“頓宮(仮宮)”を営み、“しばらく滞在して難を逃れた”という故事があります。

その後、欽明天皇の勅命により、その頓宮跡に“しばらく滞在した”ことに因んで「芝原(しばはら)八幡宮」が創建されました。

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社地には自然林が拡がっています

その謂れとなった話です。神功皇后三韓征伐を終えて都へ凱旋の途中、自分の誉田皇子の異母兄にあたる「香坂皇子、忍熊皇子」が畿内にて反乱を起こしたと聞きました。彼らは“誉田皇子の誕生”を知り、神功皇后らがこの“赤子を太子に推戴する”ことを察知し、東国から秘かに兵を集め挙兵したのです。

(※年代はいまだ確定していない。そのため神功皇后の活躍“三韓征伐のあった年代”およびその“史実の妥当性”についての研究が続いている。倭国新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書三国史記新羅本紀や高句麗における『広開土王碑文』などにも記されており、2011年には新羅が倭朝貢国であったと記されている『梁職貢図』が新たに発見されている。以上、ウキペディアより抜粋)

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木の鳥居をくぐると右に手水舎がある

その忍熊皇子たちの動きを知った皇后は、いったん紀伊国に迂回して「誉田皇子をこの地に預け」また北上を開始した。それを知った忍熊皇子は、一度撤退して山背に陣を構えなおし“決戦の場”としました。

しかし、皇后軍の指揮を執る武内宿禰は謀略により、忍熊皇子をついに琵琶湖まで敗走させ、撃ち破ったのでした。

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青龍の手水舎

 

本八幡宮と芝原八幡宮が合体したと云うのです

 

それから遙かに降った元和四年(1618年)「山中の木本・裾野の芝原」の両宮が、一体化して「木本八幡宮」と称するようになったといいます。

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石段が山のなかに続いています

元和四年といえば、紀州徳川家 徳川頼宣公がお国入りした頃ですね。前代の権力者、豊臣秀吉の焼き討ちにより荒廃した社殿の復興支援した、ということでしょうか。

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左側に社務所があります

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拝殿へ着きました

 

謎すぎる“萬葉集の歌碑”があった

 

本八幡宮の拝殿前に『萬葉集』の歌碑がある。斉明四年(658)に女帝の白浜行幸のお供をした額田王が「厳橿の木本の宮に参拝して作った歌」として歌碑を建てている。これは気になりますね。

額田王は謎のひと。生没年も不明、通説では大海人皇子(天武天皇)と結ばれて、十市皇女を生む。兄である中大兄皇子(天智天皇)にも愛されたらしい。その天智天皇崩御により「壬申の乱」が起こる。

すると額田王天智天皇の皇子である大友を見限り、大海人皇子についた。とにかくミステリアスな女性でした。

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拝殿横に歌碑がある

<巻一 第九番目>

“紀の温泉(牟婁の湯)に行幸し時、額田王の作れし歌”として

『莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新可本』

…という難訓難解な歌なのです。昔から萬葉集の研究者からは“定説が無い句”と言われてきたのですが。これはもう、本気の暗号文カモ?!この歌碑には、下の句を「吾が背子が、い立たせりけん厳橿が本」とよむらしい、と書かれていました。

「う~ん、しかし何だか判りませんね。」

 

やはり「木ノ本獅子舞」が一番有名ですね

 

秋空の下、十月に例祭「梯子獅子」が執り行われます。近隣から多くの人々が集まり、毎年賑わっています。一度ご覧になってみませんか?

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木本の獅子舞 (和歌山市HP 観光課)

本八幡

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主祭神応神天皇神功皇后、日孁大神」

本八幡宮は古より皇室、源氏、徳川家を始め、広く民衆にまで崇敬されています。

木本の獅子舞/2018年度の様子

YouTube

○開催日 10月中旬

○開催場所 木本八幡宮 権殿前広場にて

○問い合わせ先 木本八幡宮(電話 073-451-5915)

 

(2800文字、Thank you for reading.)