和歌山情報発信 Minminzemi-Jr blog

こんにちは!「Min1号」と「Min2号」のSeminarです。

【有田みかん】「伊藤 孫右衛門」 有田蜜柑の礎を築いた男の話 <戦国時代>

毎年、五月頃になると有田の山々にみかんの白い花が咲き誇り、甘酸っぱい香りが街中に広がります。「全国一の生産量」を誇る有田ならではの風物詩だと思います。

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ミカンの花が咲いている

そして十月ともなれば、少し蒼い「極早生蜜柑」が市場に出回り、秋が深まるに続いて「早生、中手蜜柑」と出荷量が増えていきます。

さぁ、今年も美味しい温州みかんの季節到来ですね。なんでも夏の暑い陽射しが、甘くて美味しい蜜柑を育てると言います。今年は、まずまずの作柄なのではないでしょうか?

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「♪みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える 青い海 お船がとおく かすんでる」有田のみかん畑から海を眺めていると、童謡の「みかんの花咲く丘」を思い出しましたね。

有田出身の方の話によると、この地方を“日本一の蜜柑産地に変えた男”がいるというのです。でもあの「紀伊國屋文左衛門」ではありませんよ。

その男の名を「伊藤孫右衛門」と言う。

その時代は元亀天正あたりの出来事、世の中がガチャガチャ騒乱していた頃ですね。宣教使のルイス・フロイスが「紀州の地には四つ、五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者も、それを滅ぼすことができなかった」と述べています。国人衆や寺社勢力が入乱れ、自主割拠していた紀州は有田地方糸我村でのハナシです。

 

蜜柑で全国的に有名な有田地方は、もともと蜜柑が無かった…んっ?!

ここ紀州有田地方は「山また山、こりゃまた山、振り返ったら川」と云う土地柄で、水田がなく米が殆ど採れなかったそうな。

昔より見るべき産物もなく、食うや食わずの着るものさえままならないという「極貧の地」であった、有田糸我村で農業を営んでいた伊藤孫右衛門は、そんな村民の窮状を日々憂えていた。というか単純に腹が減りすぎていたのだ。人間、貧すれば鈍するのである。

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第一村人登場

野良仕事終えた村人が立ち話をしている…

「のうバァさんやぁ、たまにはめはり寿司でも、食べたいもんじゃなぁ~」

「あでぇ、おぢぃさん、アタマでも可笑しくなったのかぇ、米なんか見たこともねぇぇぇ」

孫右衛門は「この地域に殖産を起す」には何がよいかと色々、思案シマクリ千代子だった。荒地を開墾し様々な木を植え試してみたが、なかなか良いものを見出せなかったそうな。

そのようなとき、肥後の国は八代高田(やつしろ、こうだ)の地に「蜜柑🍊」という木があることを旅人から聴いた。何でもたいそう「芳しい香りのする果実」がなると云う。

さらにさらに「山地にあっても生育し、歩留りも悪くない」とも聞いた。何かを⚡️閃いた孫右衛門は、思わず膝をポンと打ち、眼がキラリと光った!

「みぃ…蜜柑じゃ、これじゃぁぁ~♪」

欣喜雀躍その木を是非とも我が手に入れ、この地を“ばぶりぃな国”に変えたいと願うようになった。だがしかし、なんでもその木は、藩外不出、面会謝絶、一子相伝アンタッチャブルな木であり、おいそれと手に入れられるような代物ではなかったそうである。

「ぷろじぇくと、おれ~んぢ!!」

♪地上にある星を 誰も覚えていない 人は空ばかり見てるぅ~ぅ~♪

 

そして孫右衛門は来る日も来る日も、たいそう思案したそうです

そして和歌山の上役に相談したが、色良い返事をもらうことはできなかった。だが、それであきらめるような人ではなかった。ただのヘタレではなかったのだ。

村民の窮状を見るにつけ、オイシイめはり寿司を食べたいという自己要求は、ますます強まってゆく一方であった。それで彼は上役に幾度も願いでて、遂に上役も彼のしつこさに呆れ、彼を肥後の国に遣わすことにしたと云う。

上役は思う「しかしのう、そう簡単には譲ってくれぬであろう…」そこで一計を案じ彼に一通の手紙を持たせたらしい。その内容は「木の所望は殖産の目的ではござらぬ。単に盆栽として花実の美をめでたいのよ。よって数株恵与されたし」との内容が書かれていた。これでは「テイの良い詐欺、搾取」である。果たして巧くいくものだろうか?

孫右衛門は九州に渡海す。八代高田で交渉の末、ようやく「高田小ミカン」の苗木二本が彼に与えられた。それは天正二年のことであった(余談だが、天正二年と云えば織田信長に追放された公方様(足利義昭)が、紀州興国寺に逃げ延びてきた頃なのである)。

遂に孫右衛門は念願のみかんの木を、手に入れることができたのだ!

「ぷろじぇくと、おれ~んぢ!」

♪名立たるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴むぅ~ぅ~♪

 

人は皆歩いて旅をした。孫右衛門だって歩くしかないのですね

しかしさらなる苦闘が、孫右衛門に待ち受けていた。今日のように交通手段の発達した社会ではない。人は皆、てくてくと歩いて長旅をした。

「いかに木を枯らさずに郷里まで持ち帰るのであ~るか?!」という難問があった。

彼は孫を慈しむかのようにして(←そら孫右衛門だけにィ)その木を大事に扱い、郷里に持ち帰ったのである。道中「背中から二本の木がはえた男」としてたいそう噂になった?!…で、あるにもかかわらず長旅の故に木は枯死寸前、ハラホロヒレハレであったそうな。一本を和歌山の上役に賄賂として渡し、残りの一本を漸く糸我に持ち帰ったのである。

和歌山の木は当然の如く枯れてしまったが、糸我に植えた木は孫右衛門のたゆまぬ努力と熱情によって息を吹き返し、遂にこの地に根付いたのである。

俗に言う“Dreams come trueついに願いは叶ったのかに思えた…だが、一難去ってまた一難、更なる難題が待ち構えていたのだった。

 

地場産業と育成してゆくには、繁殖させねばならないですティニー

次の課題は木の繁殖であった。苗木を増やさねば殖産は叶わないのだ。「繁殖させることこそ、重要!」なのである。

そして孫右衛門は、有田に自生していたという橘の木に接ぎ木を試みて、これを見事成功させた。このことによって「沢山の苗木を産む」ことができるのである。

そして数年が過ぎ去った。遂にその夢にまで見た果実を、得ることができたのだ。その実の麗しきこと、また美味なことは、他の果実の遠く及ばないところであったと云う。

いまで喩えれば「メロンより <マンゴーより <蜜柑🍊愛!」だろうか。

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果実は得られ、苦労は報われた

孫右衛門は有頂天「愛 L🍊VE 蜜柑」だったに違いない。孫右衛門の熱意とその果実のすばらしさに、周囲の村人達も「大絶賛開催中!」なのでした。

さらに孫右衛門は栽培方法を惜しげも無く近隣の保田庄、宮原庄、田殿庄にも教え、有田地方は密柑産地としての礎が次第に固まっていくのでした。

紀州浅野、続く紀州徳川家の庇護の下、作つけ面積もさらに拡大されてゆく。

ようやくここに貧困有田を窮状から救い、豊かな大地へと変える「一大蜜柑産業の源泉が産まれた」のでありました…👏拍👏手👏

…めでたし、めでたし。

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♪行く先を 照らすのは まだ咲かぬ 見果てぬ 夢

遥か後ろを 照らすのは あどけない 夢

旅はまだ 終らない…ありィ~?…だ。

 

柑橘栽培の起源と小みかんについてなど、こぼれ話の色々

🍊「この話ホントに本当なの?」⇒起源は諸説あるようですが。現在の「有田市糸我町中番」に紀州藩の委託を受けた「伊藤孫右衛門が栽培」したのが始まり、というのがやはり“一番の有力説”とのことなんですね。

🍊神話時代(11代垂仁天皇)に田道間守命(たじまもりのみこと)が、中国南部より持ち帰った「非時香果」が、現在の「海草郡下津町」に移植された。その後、有田地方に「橘」として徐々に広まったと云います。(古事記 日本書紀)

🍊永享年間(1429年~1440年)糸我町の神田池のふちに、橘が一本自然に生えており年々実を結び、蜜のような味であったことから「蜜柑」と名付けられた。その後、各地方へも広まった。(糸我社由緒)

🍊天正二年(1574年)糸我の地頭「伊藤孫右衛門」が命を受けて、肥後八代より「高田蜜柑(小みかん)苗木二本」を持ち帰った。その後、各地に広まった。(紀州蜜柑伝来記)

🍊 「小ミカン」とは日本に最初に伝わった品種。肥後国八代に中国浙江省から小ミカンが伝り「高田みかん」として栽培された。のちに有田に移植され大発展したことから「紀州蜜柑」の名で全国に広まった。

🍊江戸で小ミカンが高騰していた。その話を聞いた「紀伊國屋文左衛門」が、紀州から船で蜜柑を運搬し巨大な利益を得たとされる「文左衛門伝説」でも有名。

🍊温州みかんが嫌われたのは、種がないからとか。子孫が絶えるコトを嫌った「縁起かつぎ」のため。時代が移りいまや栽培種のほとんどがいまある甘くて美味しい「温州みかん種」となった。 

🍊有田の地はその昔「安諦(あで)」と呼ばれていた。ところが平城天皇の名である「安殿」に似ているので「ありだ(在田)」に変えられたそうだ。さらに安諦も含めて有田という地名の由来に「荒れた川」からきたという説がある。

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たわわに実った早生みかん種

そして蜜柑はとても甘く、高価なフルーツに進化した✨

🍊昭和時代なら当たり前だった「コタツみかん」籠にオレンジ色の蜜柑が盛ってある風景。 コタツにこもりミカンをムシャムシャ食べるのが、幸せのパターンだったね!

🍊もちろんいまは「薄皮、種無しの温州みかん」です。いまや伝説の小ミカンはお正月の鏡餅の上に、チョンと乗っている位しか見かけなくなった。

🍊新堂地区で生産されたものを⇒「新堂みかん」湯浅町田地区で生産されたものを⇒「田村みかん」と呼ぶ。“有田ミカンのトップブランド”としていずれも有名である。

🍊ブランド蜜柑は、有名百貨店や高級フルーツ専門店に並び、とても高価で販売されている。味は「芳香と濃厚な甘さ」があり、外国からも大注目されている。

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幸せのコタツみかん

今年の冬には「コタツみかん」やりたいねぇ。

これにて有田蜜柑の話、おしまい。

 

⇒Link/ホットな“みかん産地”とのリンクです!

早和果樹園⇒ 和歌山有田みかん、味一しぼりの早和果樹園

JAありだ⇒ http://www.ja-arida.or.jp/index.php

 

参考文献/ウキペディア、JAありだ 、早和果樹園 (4000文字)

ハマの番長こと「早乙女ニャンだのすけ」がやって来た!!和歌山 西脇漁港【猫ネタ】

漁港で“漁船の撮影”をしていた時のことです。夕方の柔らかな光と影、これはいいですねぇ。風もなく穏やかな天気で、こんなのを“明鏡止水”というのでしょうか。四字熟語は、何かよく分かりませんが。

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西脇漁港の夕景

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漁船のこんな感じとか

それで絵画っぽい感じの画にしたくて、色々構図を考え撮影をしていたのですね。

鼻歌で「冬のリヴィエラ」唄いながらだけど(笑)ナンダそれ、遠藤か。

冬のリヴィエラぁぁ~男ってヤツはぁ~港を出てゆく船のようだね哀しければ哀しいほどぉ黙りこむぅもんだねぇぇぇ~」オワリ。

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このような漁港の写真です

 

番長「早乙女ニャンだのすけ」とは?!

次に漁船の船底が気になって、裏側覗き込んでいたのです。するとですねぇ、突然向こうの方から、ドラ猫さんがとっとこ走って来るではないですか。

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疾走してくるニャンコ先生

見ればなかなかのオトコマエな面構えをしていました。漁師町に相応しく、天下御免の向こう傷まで持っているぞ。こりゃ決め台詞は「天下御免の向こう傷、パッ!」だね。

とにかく迫力満点なヤンチャ系ドラ猫だったのです。

🐱「にゃんだ、にゃんだ~?」とっととトト…ピタ!うずくまり。

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何かを考え中ですね

🐱「ふ~にゃ…たいくつで仕方がないにゃ」

しばらく何かを考え中のご様子。

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手前でうずくまり様子見

🐱「ふにゃ!!お主、カメラマンにゃのか!!」

ワタシの手にしているカメラを見つけたようです。

🐱「眉間に冴ゆる三日月形、天下御免の向こう傷、ニャ!」

すると意を決したかのように、こちらに近ずいてきたニャンだのすけ。

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突然立ち上がり歩き出す

🐱「羽川流 猫眼崩し!  “回転ダブル猫パンチ” 一指し舞うにゃ~!!」

おおっ、凄いぞっこれが必殺技なのかっ?!

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突然回転しだしたニャンだのすけ

突如、回転するニャンだのすけ、ぐるぐるぐる🌀速くて追いつけない。

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ピタリ止まった。決めポーズか?

🐱  シュタッ!「ふぅぅ、決まったニャ…」 

荒技を披露して疲労したのか、しばらく動かなかった。

 

思い出した一年前の記憶 

「あぁ、お前かぁ?」やっと思い出しましたね。

このドラ猫はたしかローソンの駐車場でいた“トラとクロの子供”なんだ。

久しぶり、ずいぶん大きくなったねぇ。そうだったんだぁ。

 

その時の話は、こちらに書いていますよ。 ↓↓↓

minminzemi81.hatenadiary.com

とにかく迫力満点な“港町ヤンチャ系ドラ猫”なのでした。



 (1000文字)

梯子獅子舞で有名な「木本八幡宮」神武東征まで遡ると云う歴史的な神社です。和歌山市 木ノ本【神社仏閣覚書】

2019年今年の初詣は、和歌山市木ノ本にある「木本八幡宮」にやって来ました。本八幡宮は「厳橿山 (いつかしやま)」の中腹にあります。
その麓には仮宮の「権殿(ごんでん)」があり、毎年ここで「木ノ本の梯子獅子」が行われることで、古くから信仰を集めた歴史ある神社なのです。

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本八幡

 

まず「日前國懸神宮の鎮座伝承」について

神代の歴史から。『紀伊国造家 旧記』によれば、“神武天皇の東征”にさいして「二種の銅鏡」をたずさえた「天道根命(あめのみちねのみこと)」がまず紀州“加太浦”に上陸したと謂います。

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加太紀淡海峡

そして加太よりこの地“木本”へと銅鏡は移り、その後には“琴ノ浦”へ移ったことを、旧記は伝えています。さらに銅鏡は秋月にある「日前宮國懸神宮御神体」となりました。

それぞれの場所「加太浦」と「木本」は、それぞれ『加太 春日神社(和歌山市加太※)』に、そしてこの場所『木本八幡宮(和歌山市木ノ本)』と比定されています。

(※加太 春日神社の旧社殿は、南海加太駅の山の上にありました。)

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木の鳥居、石段が拝殿まで続く

また海南にある「琴ノ浦」は、毛見崎の付け根から広がっていた砂洲浜。

対岸の冷水浦に向かって三メートル程の高さの大岩が立ち並び、波が打ち寄せて“琴の音”のように響いていたために「琴ノ浦」と名ずけられた。

紀伊風土記』によれば「日前 國懸 神宮」が鎮座した浜であるので「汚穢不浄の者を近づけず」、もしその禁を破らば「祟りがあった」という。

現在は埋め立てられてその姿を変え「新日鉄住金の海南工場」と「関西電力発電所」さらには、沖合に「マリーナシティ」が建っています…これ、大丈夫なのでしょうか。

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御不浄は清めねばならない

また『紀伊国造家 別伝』には、天道根命が「日前 国懸 両大神」を奉じて「淡路国 御原山」に天降り、芦毛の馬に乗って「加太浦→木本→毛見浦」へと遷った、と言伝えています。

この時に天道根命が「日前 国懸 両大神」を「厳橿山の橿の木の根本に祀った」のを起源であるとし、そこから神社名が「木本の宮」となり、そしてこの地名を「木ノ本」と名付けたといいます。木の根元に御神体を祀る、古代の神社の姿が判りますね。

現在は厳橿山のふもと一帯に住宅街が広がりますが、往古は山麓直下まで海岸線が迫っていました。紀ノ川河口で天然の港でもあったこの場所に、社殿があったのですね。

確かにこの辺りは砂地の土地柄、なるほど頷ける話です。

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権殿の前は駐車場になっています

(※出典元『國造家古き傳に「道根命」大神宮を奉じ“淡路國御原山」に天降り葦毛ノ馬にのりて「賀太」より來り「木ノ本」に到りてしばらく斎奉り又「毛見郷」に遷し奉り「國造大名草彦」の世にいまの宮地に遷し奉る時「木ノ本郷」御鎮座ノ地の土を運ひ來りていまの宮地に築き<中略>木ノ本山ともいふ社地に汚穢の物あれは其土を取棄て此山の土をめてきよむといふ』と記されている。『紀伊風土記』より)

 

本八幡宮に伝わる、神功皇后説話とは 

誉田皇子(後の応神天皇)は竹内宿禰とともに、この木本に上陸して“頓宮(仮宮)”を営み、“しばらく滞在して難を逃れた”という故事があり、後に欽明天皇の勅命により、その頓宮跡に“しばらく滞在した”ことに因んで「芝原(しばはら)八幡宮」が創建されました。

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社地には自然林が拡がっています

その謂れとなった話です。

神功皇后三韓征伐を終えて都へ凱旋の途中、自分の誉田皇子の異母兄にあたる「香坂皇子、忍熊皇子」が畿内にて反乱を起こしたと聞きました。彼らは“誉田皇子の誕生”を知り、神功皇后らがこの“赤子を太子に推戴する”ことを察知し、東国から秘かに兵を集め挙兵しました。

(※年代はいまだ確定していない。そのため神功皇后の活躍“三韓征伐のあった年代”およびその“史実の妥当性”についての研究が続いている。倭国新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書三国史記新羅本紀や高句麗における『広開土王碑文』などにも記されており、2011年には新羅が倭朝貢国であったと記されている『梁職貢図』が新たに発見されている。以上、ウキペディアより抜粋)

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木の鳥居をくぐると右に手水舎がある

その忍熊皇子たちの動きを知った皇后は、いったん紀伊に迂回して「誉田皇子をこの地に預け」北上を開始。忍熊皇子は一度撤退して、山背に陣を構えなおし“決戦の場”としました。しかし、皇后軍の指揮を執る武内宿禰は謀略により、忍熊皇子をついに琵琶湖まで敗走させ、撃ち破ったのでした。

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青龍の手水舎

 

本八幡宮と芝原八幡宮が合体したと云うのです

それから遙かに降った元和四年(1618年)「山中の木本・裾野の芝原」の両宮が、一体化して「木本八幡宮」と称するようになったといいます。

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石段が山のなかに続いています

元和四年といえば、紀州徳川家徳川頼宣公がお国入りした頃ですね。前代の権力者、豊臣秀吉の焼き討ちにより、荒廃した社殿の復興支援したということでしょうか。

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左側に社務所があります

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拝殿へ着きました

 

謎すぎる“萬葉集の歌碑”があった

本八幡宮の拝殿前に『萬葉集』の歌碑がある。

斉明四年(658)に女帝の白浜行幸のお供をした額田王が「厳橿の木本の宮に参拝して作った歌」として歌碑を建てている。気になります。

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拝殿横に歌碑がある

巻一 第九番目

“紀の温泉(牟婁の湯)に行幸し時、額田王の作れし歌”として

『莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新可本』

…という難訓難解な歌なのです。これは“定説が無い句”と言われています。歌碑には、下の句を「吾が背子が、い立たせりけん厳橿が本」とよむらしい、と書かれていました。 う~ん、何だか判りませんね。

 

やはり「木ノ本獅子舞」が一番有名ですね

秋空の下、十月に例祭「梯子獅子」が執り行われます。

近隣から多くの人々が集まり、毎年賑わっています。

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木本の獅子舞 (和歌山市HP 観光課)

本八幡

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主祭神応神天皇神功皇后、日孁大神」

本八幡宮は古より皇室、源氏、徳川家を始め、広く民衆にまで崇敬されています。

木本の獅子舞/2018年度

YouTube

○開催日 10月中旬

○開催場所 木本八幡宮 権殿前広場にて

○問い合わせ先 木本八幡宮(電話 073-451-5915)

 

(2500文字)

ついに私が「ブログ書きの真髄」を語る時がきたようだね。ぬはははのは【ブログ、その傾向とキャッチ♡アイ】

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ブログ初心者に“贈る言葉”言いたいアルアル、ブログ初心者に“贈る言葉”云いたいアルアル。ブログ初心者に“贈る言葉”いぃ~くよっ!

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One・Two・Three、はいっ⇒『ブログは“タイトルと、書き出し”がすべてっ!』…オワリ。

 

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蛇足コーナー/

カンタンに終わってもたがなぁ、かなんなぁホンマ、判れへんちゅ~ねんキーボー、たのむでしかし…(横山やすし風)なるほど成程、これでは伊佐坂先生「あんまりぃ⤴︎」なので、もう少し続けますね。何故、「タイトルと書き出し」なのか??

 

○「タイトルが大切ですか?」そう、ほとんどのヒトは「検索時にタイトルしか見ない」のです! 本でいえば背表紙ですね。タイトルを“キャッチで煽り”まくってくださいっ!! オーディエンスに読まれたいならね。

ハイ⇒「キャッチィなタイトルでキメっ!」

これがそのお馬鹿な例↓↓↓

minminzemi81.hatenadiary.com

 

○例えば文豪の川端康成先生は、あの有名な『雪国』でこう始めた「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」傑作決定!ノーベル賞いただきっ!こんな“凄い出だし”は見たことないね。ドッ♡キュ~ンだねっ!

この一文で、「すべてを物語る」のであります。

もちろん、我々凡夫がおいそれと出来ることでは無い、それはそうなのですが。けれども「努力ポイント」であり下手な真似ぐらいは、まぁ…やれない事でもないでしょう?! 何事も“つかみ”は大切です。

ハイ⇒「書き出しでぇ、キメキメっ!」

これがそのチャレンジ例です↓↓↓

minminzemi81.hatenablog.com

 

○EX.さらにさらに蛇足くわえるなら、ブログに「写真」は必須だね。「百聞は一見にしかず」とは良く出来た警句、“千の駄文よりも一葉の写真”が多くを物語っています。

ハイ⇒「写真で“愛✨キャッチ”しませう」

これが一例となるかなぁ?!↓↓↓ 

minminzemi81.hatenablog.com

 

 「まだまだ伸びしろありますねっ!!」

 

今週のお題「ブログ初心者に贈る言葉

【Xファイル 未分類項目】「Dr.傘ドン・K・レクター(略称 Dr.K)氏 事件」

< Xファイル 未分類項目>  -Top Secret-

「Dr.傘ドン・K・レクター(通称 Dr.K)」案件 調査報告書

 

>>出身地(推定) みかん県 みかん山コロニー「🍊みかん星人=未完成人=明日ペルガーor最高パス?!」

>>現在地(確定) 「天空の城 、空の木、太陽の道」など周辺生息地域である。

>>エイリアンによるアブダクション経験があり、そのアブダクティでもある「Dr.K」は連れ去られ消された記憶「納屋での人体実験」を克明に語った。

>>そのエイリアンの特徴としては、身長はやたらと低く、色白で黒目の瞳、耳たぶや唇などは小さい。地球外生命体の特徴を備えた「グレイタイプB」であったらしい。

>>時間が経ってから「ようやく思い出す」というケースはUFO案件に数多く報告されている。アブダクトされたという“明白な記憶”はなくとも、成長するに従いやがて心身にさまざまな“サイン”が現れる場合がみられる。

>>それは「やたらと女好き」とか「幸リ鯵ス全開!」や「性欲が異常なキノコマリオ状態・年末特番 警察24時!!」とかである。

>>以下リポートは本人の過去「蘇った記憶」をもとに、時系列に沿って構成されたものである。そして多くの表現が不可解気味なのは「自閉症で、混み障で、明日ペルガー」であると「Dr.K」自身が認めていることでもある。

>>オープニング:SEASON ONE 

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二匹のネズ公と二人のコビト 

当時「二匹のネズ公」と「二人のコビト」は、それぞれ毎日“ラビリンス”を忙しく駆け巡っていました。そんなある日、大量の🧀チーズが置かれている「チーズ・ステーション」なるものを偶然発見✨したのです。

その場所を最初に見つけたのは嗅覚の良い二匹のネズ公なのですが、どうやら「残念な頭の構造」だったようで、自分のネグラから“バタスタバ”と走ってきます。

対して二人のコビトは、小賢いのでチーズ・ステーションの近くに引っ越して、わざわざ早起きせずとも昼頃に起き、悠々とチーズ・ステーションに行くのでした。

ある時、大事件が起こる!「チーズ・ステーションの🧀チーズがなくなっていた」のです。

もちろん、突然なくなった訳ではなく「毎日二匹のネズ公と二人のコビトが、腹いっぱい🧀チーズを食べていた」ので、みるみる減ってしまっただけの話なのですが。

>>参考資料①/みかん星人の性格とは…「ジト目で見てるだけ」


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コビトの怠惰で愚かなる日々

🧀チーズがなくなってからの行動は、ネズ公とコビトで大きく異なっていました。

ネズ公は以前の生活どうりに、朝からラビリンスをムダに“ドタバタヤ~ン”と駆け巡り、どこかにある新たな🧀チーズを見つけようと盛んに活動をしています。

コビトたちはというと「🧀チーズはどこへ消えた?!」とか「アブダクション事件だ!」さらに「こんなことがあっていいわけない!!」と叫んでいるだけなのでした。

でも「今日は🧀チーズがもとに戻っているに違いない!」と“謎の期待”をもちながら、チーズ・ステーションで「🧀チーズがないこと」を“再確認する”だけという、全くもって“実に愚かしい日々”が続いてゆくのです。

>>参考資料②/みかん星人の行動とは…「決して交わらない」

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新たな展開「Dr.K」身の振り方

🧀チーズがまったく手に入らない日々が永く続く。ある日のこと、コビトの片われ「傘ドン・K・レクター(以下、通称Dr.K)」はとうとう「ネオ🧀チーズ」を探すべく、古いチーズ・ステーションから「旅立つことを決意」しました。

実際のところ、この考えは必ずしも「“Success”が約束されている訳ではない」ので「Dr.K」は、慣れ親しんだチーズ・ステーションから離れるべきかどうか、いつまでも“ウジマッチャリ”と迷っていたのです。

そして決断させたある“出来事”が起こった。それが何であったかは、いまもって不明ですが。やがて「Dr.K」は堂々宣言した「人生は大河の一滴。進め!ひょっこりひょうたん島!!」と。そのかたわらで“呆然の相方”に対しそう言い残し、“ラビリンス”へと一目散に駆け出して行ったのでした。

「ばたばたびぃ~や♪サバら!」

>>参考資料③/みかん星人の人生とは…「無駄にまったりし過ぎ」

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突然消えた「Dr.K」その後の行方

そう「Dr.K」はネオ🧀チーズを探していく過程で⇒『たとえ新しい🧀チーズが見つからなくても、いままでのチーズ・ステーションにとどまっている生活より「はるかに気持イイ~♪」ことが“図画工作”できる!』この可能性に、はたと気付いたのです。

そして「Dr.K」は、ラビリンスを何度も駆け巡りながら「日々気づいたことをブログに記録」し、とうとう“ネオ・チーズ・ステーション”を発見✨するのでした。

それは「頭の中のネズ公二匹」のお陰なのでしたが。それから…行方不明になっていた相方は「Dr.K」により、“コンクリずめ(カイショ付き)”にされていたのでした。

以上、報告を終わります。 (署名/スカリー捜査官)

 

>>推薦図書/チーズはどこへ消えた?

(この記事はすべてパロディであり、フイクションです。2100文字)

海賊「つむじ風 剛右衛門」お宝伝説について 和歌山市 友ヶ島【友ヶ島裏話-壱】

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紀淡海峡淡路島、友ヶ島和歌山市

 

黄金伝説『豪右衛門の“隠し財宝の場所”は、紀淡海峡の「友ヶ島」である!!』それマジですか?!

 

海賊「つむじ風豪右衛門」とは?! 

埋蔵金やお宝伝説はロマンにあふれ、多くの人々を惹きつけるものですね。和歌山市友ヶ島には、江戸時代に瀬戸内海で大暴れした海賊「つむじ風剛右衛門」が隠したという「お宝伝説」がいまに伝わります。

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海にはロマンがある

この通称「つむじ風」は「海が荒れた日に限り海賊稼業」に出たところからついた通り名で、豪右衛門はあくまでも表向き「廻船問屋の顔役」であり、裏社会での顔「海賊の大親分」とを使い分けていました。

(※沖ノ島、神島、虎島地ノ島、四島併せ「友ヶ島」と呼ぶ)

 

海賊行為のやり方は、頭が良かった

紀伊水道は諸藩の商船が多く往き来する大動脈。その積荷を“荒れた海で略奪”する。そして奪ったお宝はしっかりと選別し、足がつきそうにない品物だけを売り捌く。売ることの出来ないお宝は「どこかへ隠匿し続けた」と云います。

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友ヶ島遠景

ある日のこと。剛右衛門は嵐の日に略奪に向かったが、難破し多くの子分と一緒に溺死したといわれています。そしてお宝の「隠し場所を誰にも伝えず」この世を去った。残された品々を金額に換算すれば、総額「数百億から、数千億…?!」にものぼるというのですから、これには血が騒ぎますね。

 

では「友ヶ島を探索」すればいいの?

豪右衛門の「隠し島は友ヶ島」と伝わっている。そしてその友ヶ島は「幕末から明治、第二次世界大戦が終わるまで軍事拠点」となり、一般人の立ち入りは厳禁だった。また大がかりな探索はいまもなされてはいない。

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紀淡海峡

このことはお宝が「手付かずで眠っている可能性」を示唆しています。しかし剛右衛門が暴れていた海域は、四国蒲生田岬付近※ の「伊島」から淡路島南部地域「沼島」そして、和歌山市友ヶ島」までの紀伊水道一帯に及びます。

(※昭和二十年に発見された「蒲生田岬の金塊」も、財宝伝説となにか関係あるのかも知れない)

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加太の夕暮れ時

とにかく豪右衛門の「お宝総額」も凄いですが「対象海域」も広域なのですね。そして何よりも困ったことに「具体的な手掛かり」は全く残されていないのです。

 

友ヶ島情報をまとめました。参考にどうぞ↓↓↓

minminzemi81.hatenablog.com

(1000文字)