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こんにちは!「Min1号」と「Min2号」のSeminarです。

【有田みかん】「伊藤 孫右衛門」 有田蜜柑の礎を築いた男の話 <戦国時代 逸話>

毎年、五月頃になると有田の山々にみかんの白い花が咲き誇り、甘酸っぱい香りが街中に広がります。「全国一の生産量」を誇る有田ならではの風物詩だと思います。

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ミカンの花が咲いている

そして十月ともなれば、少し蒼い「極早生蜜柑」が市場に出回り、秋が深まるに続いて「早生、中手蜜柑」と出荷量が増えていきます。品種には「ゆら早生」「日南1号」「上野早生」「大浦早生」などがあります。その中でも「ゆら早生」は和歌山県で発見された品種で、果皮が緑色でも果肉は糖度が高くさわやかな風味が特徴です。

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さぁ、今年も美味しい温州みかんの季節到来ですね。なんでも夏の暑い陽射しが、甘くて美味しい蜜柑を育てると言います。今年は、まずまずの作柄なのではないでしょうか?

 

「♪みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える 青い海 お船がとおく かすんでるぅ~」有田のみかん畑から海を眺めていると、童謡の「みかんの花咲く丘」を思い出しましたね。

 

有田出身の方の話によると、この地方を“日本一の蜜柑産地に変えた男”がいるというのです。でも「紀伊國屋文左衛門」ではありません。

○文左衛門伝説はこちら⇒講談 紀伊国屋文左衛門「南風乗切り」 / 一龍斎貞水 - YouTube

 

そう、その男の名を「伊藤孫右衛門」と言う。

その時代は元亀天正あたりの出来事、世の中がガチャガチャ騒乱していた頃ですね。宣教使のルイス・フロイスが「紀州の地には四つ、五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者も、それを滅ぼすことができなかった」と述べています。国人衆や寺社勢力が入乱れ、自主割拠していた紀州は有田地方糸我村でのハナシです。

 

蜜柑で全国的に有名な有田地方は、もともと蜜柑が無かった…ん??

 

ここ紀州有田地方は「山また山、こりゃまた山、振り返ったら川」と云う土地柄で、水田がなく米が殆ど採れなかったそうな。昔より見るべき産物もなく、食うや食わずの着るものさえままならないという「極貧の地」であった。

その有田の糸我村で農業を営んでいた伊藤孫右衛門は、そんな村民の窮状を日々憂えていた。というか単純に腹が減りすぎていたのだ。

人間、貧すれば鈍するのである。

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第一村人登場

野良仕事を終えた村人が、立ち話をしている…

「のうバァさんやぁ、たまには熟鮨でも、食べたいもんじゃなぁ~」

「あでぇ、おぢぃさん、アタマでも可笑しくなったのかぇ、米なんか見たこともねぇぇぇ」

孫右衛門は「この地域に殖産を起す」には何がよいかと色々、思案シマクリ千代子だった。荒地を開墾し様々な木を植え試してみたが、なかなか良いものを見出せなかったそうな。

そのような時、「肥後の国は八代高田(やつしろ、こうだ)」の地に「蜜柑🍊」という木があることを旅人から聴いた。何でもたいそう「芳しい香りのする果実」がなると云う。

さらにさらに「山地にあっても生育し、歩留りも悪くない」とも聞いた。何かを⚡️閃いた孫右衛門は、思わず膝をポンと打ち、眼がキラリと光ったっ!

「みぃ…蜜柑じゃ、これじゃぁぁ~♪」

欣喜雀躍その木を是非とも我が手に入れ、この地を“ばぶりぃな国”に変えたいと願うようになった。だがしかし、なんでもその木は、「藩外不出、面会謝絶、一子相伝アンタッチャブルな木」であり、おいそれと手に入れられるような代物ではなかったそうである。

 

「ぷろじぇくと、おれ~んぢ!!」

♪地上にある星を 誰も覚えていない 人は空ばかり見てるぅ~ぅ~♪

 

(※熟鮨は和歌山の特産品。鯖・秋刀魚など魚と飯を合わせ、樽に漬け重石をする。数日から数か月あるいは数年間も乳酸発酵させる。乳酸発酵によって味は酸っぱくなるが、雑菌の繁殖を抑えつつタンパク質の分解に伴う、アミノ酸成分の旨みを増加させる料理法で、寿司の元祖と云われる)

 

そして孫右衛門は来る日も来る日も、たいそう思案したそうです

 

そして和歌山の上役に相談したが、色良い返事をもらうことはできなかった。だが、それであきらめるような人ではなかった。ただのヘタレではなかったのだ。

村民の窮状を見るにつけ、オイシイ熟鮨を食べたいという自己要求は、ますます強まってゆく一方であった。それで彼は上役に幾度も願いでて、遂に上役も彼のしつこさに呆れ、彼を肥後の国に遣わすことにしたと云います。

上役は思う「しかしのう、そう簡単には譲ってくれぬであろう…」そこで一計を案じ彼に一通の手紙を持たせたらしい。その内容は「木の所望は殖産の目的ではござらぬ。単に盆栽として花実の美をめでたいのよ。よって数株恵与されたし」との内容が書かれていた。これでは「テイの良い詐欺、搾取」である。果たして巧くいくものだろうか?

孫右衛門は九州に渡海す。八代高田で交渉の末、ようやく「高田小ミカン」の苗木二本が彼に与えられた。それは天正二年のことであった(余談だが、天正二年と云えば織田信長に追放された公方様(足利義昭)が、紀州興国寺に逃げ延びてきた頃なのである)。

遂に孫右衛門は念願のみかんの木を、手に入れることができたのだ!

 

「ぷろじぇくと、おれ~んぢ!」

♪名立たるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴むぅ~ぅ~♪

 

人は皆歩いて旅をした。孫右衛門だって歩くしかないのです

 

しかしさらなる苦闘が、孫右衛門に待ち受けていた。今日のように交通手段の発達した社会ではない。人は皆、てくてくと歩いて長旅をした。

「いかに木を枯らさずに、郷里まで持ち帰るのであるか?!」という難題があった。

彼は孫を慈しむかのようにして(←そら孫右衛門だけにィ)その木を大事に扱い、郷里に持ち帰ったのである。道中「背中から二本の木がはえた男」としてたいそう噂になった?!…で、あるにもかかわらず長旅の故に木は枯死寸前、ハラホロヒレハレであったそうな。一本を和歌山の上役に賄賂として渡し、残りの一本を漸く糸我に持ち帰ったのである。

和歌山の木は当然の如く枯れてしまったが、糸我に植えた木は孫右衛門のたゆまぬ努力と熱情によって息を吹き返し、遂にこの地に根付いたのである。

俗に言う“Dreams come trueついに願いは叶った!…かに思えた。

だが、一難去ってまた一難、更なる難題が待ち構えていたのだった。

 

地場産業と育成してゆくには、繁殖させねばならないですティニー

 

次の課題は「苗木の繁殖」であった。苗木を増やさねば殖産は叶わないのだ。「繁殖させることこそ、重要!」なのである。

そして孫右衛門は、有田に自生していたという橘の木に接ぎ木を試みて、これを見事成功させた。これにより「沢山の苗木を産む」ことができるのである。

そして数年が過ぎ去った。遂にその夢にまで見た果実を、得ることができたのだ。その「実の麗しきこと、また美味なこと」は、他の果実の遠く及ばないところであったと云う。

いまで喩えれば「メロンより <マンゴーより <蜜柑🍊愛!」だろうか。

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果実は得られ、苦労は報われた

孫右衛門は有頂天に「愛 L🍊VE 蜜柑」だったに違いない。孫右衛門の熱意とその果実のすばらしさに、周囲の村人達も「大絶賛開催中!」なのでした。

さらに孫右衛門は“栽培方法を惜しげも無く”近隣の保田庄、宮原庄、田殿庄にも教え、有田地方は密柑産地としての礎が次第に固まっていくのでした。

紀州浅野、続く紀州徳川家の庇護の下、作つけ面積もさらに拡大されてゆく。

ようやくここに貧困有田を窮状から救い、豊かな大地へと変える「一大蜜柑産業の源泉が産まれた」のでありました…👏拍👏手👏

…めでたし、めでたし。

 

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♪行く先を  照らすのは  まだ咲かぬ  見果てぬ 夢

遥か後ろを  照らすのは  あどけない  夢

旅はまだ  終らない…。

 

○文中引用した楽曲「地上の星」「ヘッドライト・テールライト」どちらも神曲

⇒ 地上の星 / 中島みゆき [公式] - YouTube

⇒ Headlight/中島みゆき Taillight

 

柑橘栽培の起源と小みかんについてなど、こぼれ話の色々

 

🍊「この話、ホントに本当なの?」⇒起源は諸説あるようですが。現在の「有田市糸我町中番」に紀州藩の委託を受けた「伊藤孫右衛門が栽培」したのが始まり、というのがやはり“一番の有力説”とのことなんです。

🍊神話時代(11代垂仁天皇)に田道間守命(たじまもりのみこと)が、中国南部より持ち帰った「非時香果」が、現在の「海草郡下津町」に移植された。その後、有田地方に「橘」として徐々に広まったと云います。(古事記 日本書紀)

🍊永享年間(1429年~1440年)糸我町の神田池のふちに、橘が一本自然に生えており年々実を結び、蜜のような味であったことから「蜜柑」と名付けられた。その後、各地方へも広まった。(糸我社由緒)

🍊天正二年(1574年)今回のお話に登場した、糸我の地頭「伊藤孫右衛門」が命を受けて、はるばる肥後八代より「高田蜜柑(小みかん)苗木二本」を持ち帰った。その後、各地方に広まった。(紀州蜜柑伝来記)

🍊 「小ミカン」とは日本に最初に伝わった品種。肥後国八代に中国浙江省から小ミカンが伝り「高田みかん」として栽培された。のちに有田に移植され大発展したことから「紀州蜜柑」の名で全国に広まった。

 

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たわわに実った早生みかん種

🍊江戸で小ミカンが高騰していた。その話を聞いた「紀伊國屋文左衛門」が、紀州から船で蜜柑を運搬し巨大な利益を得たとされる「文左衛門伝説」でも有名ですね。和歌山の湯浅には「紀伊國屋文左衛門生誕の碑」がある。

🍊温州みかんが嫌われたのは、何と“種がない”からとか。子孫が絶えるコトを嫌った「縁起かつぎ」のため。時代が移りいまや栽培種のほとんどが、いまある甘くて美味しい「温州みかん種」となっています。 

🍊有田の地はその昔「安諦(あで)」と呼ばれていた。ところが平城天皇の名である「安殿」に似ているので「ありだ(在田)」に変えられたそうだ。さらに安諦も含めて有田という地名の由来に「荒れた川」からきたという説がある。

🍊江戸時代、和歌山城にあった有名な「三宝柑」。その味をいたく藩主が気に入り、“藩外移出禁止令”が出たほどだった。名前の由来は「三方」に載せて、紀州の殿様に献上されていたことからと謂れています。

 

そして蜜柑はとても甘く、高価なフルーツに進化した✨

 

🍊昭和時代なら当たり前だった「コタツみかん」籠にオレンジ色の蜜柑が盛ってある風景。 コタツにこもりミカンをムシャムシャ食べるのが、幸せのパターンだったね!

🍊もちろんいまは「薄皮、種無しの温州みかん」です。いまや伝説の小ミカンはお正月の鏡餅の上に、チョンと乗っている位しか見かけなくなった。

🍊新堂地区で生産されたものを⇒「新堂みかん」湯浅町田地区で生産されたものを⇒「田村みかん」と呼ぶ。“有田ミカンのトップブランド”としていずれも有名である。

🍊ブランド蜜柑は、有名百貨店や高級フルーツ専門店に並び、とても高価で販売されている。味は「芳香と濃厚な甘さ」があり、諸外国からも大注目されている。

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幸せのコタツみかん

今年の冬には「コタツみかん」やりたいねぇ。これにて有田蜜柑の話、おしまい。

 

[おまけコーナー] ちょっとイイ感じの話。

 

文豪 芥川龍之介の傑作短編に『蜜柑』と云う作品があります。ワタシの大好きな作品なのです。作中に蜜柑が“とても鮮やかな色彩”を放って、登場するのですね。約13分ほどですので、一度お聴き下さい。

朗読/西村俊彦

YouTube

 

⇒Link/ホットな“みかん産地”とのリンクです!

早和果樹園⇒ 和歌山有田みかん、味一しぼりの早和果樹園

JAありだ⇒ http://www.ja-arida.or.jp/index.php

 

参考文献/ウキペディア、JAありだ 、早和果樹園 

(4800文字、Thank you for reading.)